三光寺について

三光寺について

名称は金谷山三光寺松鷹坊といい、真言宗醍醐派の準別格本山である。

弘法大師作と伝わる梵天帝釈青面金剛王を本尊とする。
また、山内の護摩堂では薬師仏と不動明王が祀られる。薬師仏は明暦元年(1655年)の大洪水の土中から金谷村(現金谷町)の川原又佐御門が発掘し安置。不動明王は宝永7年(1710年)に川上氏(旧緒川屋)が奉納したものである。

庚申別当跡次院政長が貞享元年(1684年)に著した縁起書には「金谷村郷土近藤弥右衛門信種が日頃に崇っていた尊像を村中の鎮守として慶長15年(1610年)に一宇を創設した」とあるが、それ以前に碧海郡上野郷(現愛知県豊田市上郷町)にあった天當庵から庚申堂が現住所に移されており、伊保城主丹羽勘助も深く信仰していたとされる。

慶弔8年(1603年)8月23日に秋応法印を招き開基。閑地院または松鷹坊と呼ばれ、世人の信仰を集め、衣(挙母)城主であった三宅能登守康勝(康時)が厚く信仰した。

他にも「庚申堂壱ヵ所境内年貢地三光寺境内年貢地」(本多侯引継申送書、寛延2年(1749年)5月)、「金谷山三光寺植田義方いう金谷山三光寺は当山方の修験他、庚申堂三光寺境内に在り遠近より参詣群参す」(参河国名所図絵)、「兼谷村一作金谷、高九2石3斗5升 庚申堂あり参詣多し」(参河志)とあり、当時より遠近からの参拝者で賑わい、多くの修験者が修行に励んでいたことが記述されている。

年表



慶弔8年(1603年)8月23日 秋応法印を招き開基。
寛文2年(1662年)12月 衣長田(現豊田市司町)の永田氏に命じ、本堂を再建。当時は茅葺であり、この時に山門も新立された。
天和3年(1683年)4月 護摩堂が再建。
貞享3年(1686年)12月 茅葺の本堂が改築される。
元禄15年(1702年)夏 尊像院法印の称号を受ける。
宝永2年(1705年)7月 住職金谷験覚の時に本山(醍醐寺三宝院)から角象院法印の称号を受ける。
宝永4年(1707年)6月 瓦葺丹朱の本堂再建が開始。
宝永5年(1708年)3月 本堂再建が終了。同年11月に安座の法会が修行された。
享保2年(1717年)4月28日 醍醐寺三宝院より「金谷山三光寺松鷹坊」の称号が許される。
享保8年(1723年)3月15日 梵鐘が縛られる。
昭和17年(1942年)3月1日 宗教団体法の認可を得る。
昭和20年(1945年)12月28日 宗教法人令による設立登記。
昭和24年(1953年) 醍醐寺三宝院より「準別格本山」への昇格が認可。
昭和28年(1953年)12月19日 宗教法人法による「宗教法人三光寺」設立認証。
昭和29年(1954年)9月4日 設立登記。

住職あいさつ

三光寺 二十代住職 金谷覚雄(かなやかくおう)

三光寺は昔から「金谷の庚申さん」と呼ばれ、人々に慕われてまいりました。日本三躰といわれる本尊様は「青面金剛王」(しょうめんこんごうおう)です。
本堂の両側には「狛猿」が、また屋根には「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が、そして本堂内には、多くの猿が本尊様をお守りしております。また、戦前には猿も飼われておりました。
そして、本尊様の扉が開かれるのは12年に1度で「申の年、申の日、申の時」にのみ開かれ「御開帳」と呼ばれて次回は令和10年に行われます。
人の中には、様々な煩悩(欲望)があり、絶えず大きくなります。庚申様にお参りをして、少しでも心を落ち着かせ、理性を取り戻していただいて変動の多い社会を生き抜いて頂けたらと思います。
皆様の中にある、本来の自分に気付いて頂き、平和な日々を送って頂けるよう心がけております。